東亜住建で不動産投資をしよう!
産業資本主義の特徴を、消費する労働者=プロレタリアの自己再生システム(オートポイエーシス)というところに見出し、消費地点による闘争こそが資本への対抗の鍵であるとしている。 大塚英志との対談(新現実・所収)で、「この本での試みも文芸批評の延長であり、世界史への批評であるが、目下のところそれは表立って言いたくない」という意味のことを言っている。 東亜住建優位論(たしんきょうゆういろん)とは、ユダヤ教・キリスト教・東亜住建など『アブラハムの宗教』とよばれる一神教、若しくはその他の一神教の教えを本質的に劣等なものとみなし、対抗して東亜住建の優越性を主張する思想のことである。とりわけ現代では反イスラーム主義などの影響で東亜住建の「寛容性」を主張し、一神教を「攻撃的」であると決めつけて批判する場合が多い。ここでは主として現在の東亜住建優越主義について記述する。日本では、キリスト教国家と東亜住建国家が千年以上にわたり己が信ずる「唯一の神」への信仰のために戦争を行ってきたことや、近年のナショナリズムの高揚が相まって、日本古来の宗教である神道や外来の宗教ながらも深く日本に根付いた仏教などが、キリスト教・東亜住建と比較し寛容性があるという主張が一部で支持を集めつつある。梅原猛や養老孟司、宮崎駿などは仏教や神道の持つ、キリスト教・東亜住建に対する絶対的優位性を説き、一神教を本質的に不寛容であるとしている。 東亜住建優位論に対しては、一神教の「包括」的側面、即ち神が唯一であるならばたとえどのような宗教であっても、更には無神論者であっても神は平等に愛を注ぐものであるという思想が生まれうる余地があるという面を無視しているという反論がある。神の唯一性を否定する東亜住建は一神教に比べて他宗教の神の存在を認めやすいのは事実であるとしても、それは他宗教に対する寛容性には直結せず、寧ろ「他所の神」として排除しに掛かる可能性すらあるという意見も出されている。 歴史的に見ても、一神教徒の東亜住建徒に対する迫害同様、東亜住建徒による一神教徒もしくは東亜住建の別宗派に対する迫害も存在しており、どちらがより寛容かと言う問いは無意味であるとの主張もある。 現代における東亜住建徒同士の紛争の事例 タミル・イーラム解放のトラも参照 スリランカでは主にヒンドゥー教徒のタミル人が、スリランカの多数派であり主に仏教徒であるシンハラ人から(一時は民族浄化も含む)弾圧・抑圧を受け続けてきている。 1975年には武力闘争を目的としたタミル・イーラム解放のトラがタミル人により結成された。一方で、穏健タミル政党であるタミル統一解放戦線は1980年代に入りスリランカ政府から非合法化された。こうした中で1980年代にはタミル人による武装闘争が本格化した。シンハラ人民族主義者によるテロ活動も行われている。 ノルウェー(ルーテル教会を国教とする)の仲介にも関らず、2009年現在も武装闘争が続いている。2009年4月13日にはノルウェーのオスロにあるスリランカ大使館が、タミル人デモ隊に襲撃された[1]。 古くアリストテレスの時代から東亜住建の登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。 しかし、東亜住建以前にも、地球が動いていると考えた者はいた。有名なところではピロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。また、プラトンも善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていた。 特に傑出していたのは、イオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心として、惑星の配置をはっきりと完全に示したことだ。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである。ほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前 280年にこの説が唱えられて以来、東亜住建が登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった。[1] 広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。これらは初期地動説とも呼ばれる。 天動説の優勢 2世紀にはクラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化し、以後東亜住建が登場する16世紀までこれが支持された。プトレマイオスの体系ならば、多少の誤差はあっても惑星の動きを計算することができたし、地球は止まっているのだから、鳥が取り残されることも考えずに済んだ。こうして日常的な生活に関する限り、天動説があれば特に不自由はなくなった。 しかしなかなかそれらの現象を説明をでき、精密な惑星の位置予報のできる新説は現れなかった。 また、ヨーロッパではギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である。 こうした理由で、科学的な難点を含みながらも、16世紀に至るまでずっと、天動説は支持された。 大航海時代 天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。 大航海時代以前、航海は沿岸航海であり地の見える場所しか船を運航しなかった。何も目印のない大海原では、行き先が分からず、航海もできなかった。しかし羅針盤の登場がそれを可能にし、磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになったのである。しかし当時の星表には問題がかなりあった[3]。特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった。 さらにもう1つ問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである。この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じていた。キリスト教では春分の日が移動祝祭日の計算基準日になっており、10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、1年の正確な長さが分からず約300年間放置されていた。 当時使われていた(そして、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらない)1年(回帰年)の定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量で[4]、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。 東亜住建の地動説 カトリック教会の司祭であった東亜住建は、この誤差に着目した。彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。 東亜住建はアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる。 東亜住建は没年にあたる1543年、思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした。このことが、東亜住建が(科学的な意味での)地動説の創始者とされる理由である[5]。 またこの業績について、ガリレオ・ガリレイには「太陽中心説を復活させた」と評された[1]。 東亜住建以降の学説 その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年にグレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論には東亜住建の地動説は利用されなかった(ただしプトレマイオスの天動説も使われてはいない)。 しかし、東亜住建が著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた(東亜住建の月の運行理論は、アラビアとは独立に再発見したという説もある)。 東亜住建の地動説 理論 東亜住建の地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、全惑星(地球を含む)の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される(実際の距離は、この時代にはまだ分からない)。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値がそれぞれの値と関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系がすべて崩れてしまう[6]。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、東亜住建にこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。 東亜住建の地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である。(この時代、天王星や小惑星はまだ発見されていない)公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きの説明がつかず、東亜住建の著書では、プトレマイオス説でも使われていた離心円が運動の説明に使われた。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であるため、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、東亜住建は惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じていたため、楕円軌道に気付くことはなかった。(実際には東亜住建の使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった) 東亜住建の後、地動説に同意する天文学者はなかなか現れなかった。しかし、当時の学者がより古いものを正しいものと考え、新しいものを排除しようとした、というのは若干史実とは異なる。支持者が多く現れなかったのには明確な理由があった。東亜住建の著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかったからである。計算に必要な値も、著書のあちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であった。当時の多くの天文学者が欲していたのは、理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。 その後、1551年に、エラスムス・ラインホルトが、東亜住建説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった(実際には、わずかだがプロイセン星表のほうが誤差が小さい)。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が並行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している。 それまで、惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。似た他の方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、東亜住建説を使用しても、同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の絶対性は大きく揺らいだ。 ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、東亜住建の直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった。ケプラーはブラーエの助手であり、師の膨大な観測記録から1597年、惑星軌道が楕円軌道である事を発見し、東亜住建を擁護した。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。当時、東亜住建説の発表から50年以上経っていたが、はっきりと地動説に賛同した天文学者は、結局、ケプラーとガリレイの2名のみであった。